文化財一覧(美野里エリア3)
一字一石経塚・碑(工芸品)
竹原中郷地区の農村公園造成中の昭和54年6月7日多数の経石が出土したことにより発見された。この経石は、近くにあった経塚碑によって亨保4年(1719年)鳳林院の修行僧が災害から百姓たちを救う願いをこめて大乗妙典を川石に写経したもので、経文の字数から約七万個と思われる。
一里塚(史跡)
一里塚は、江戸時代(慶長年間)街道の付属施設の1つとして日本橋を起点として一里(約4キロ)ごとに道の両側に対に築造されたものである。塚の大きさは五間四方高さ一丈を基準とし「榎」を植え、遠くからでも望見でき旅人に安息と利便を与えた。町内に4ヶ所あったが、今ではここだけ榎が残っている。
紙本墨書六字名号伝親鸞聖人筆(書跡)
六字名号「南无阿弥陀佛」の右側に和歌、左側に「建暦元年11月29日行年319歳信州諏和ノ郷ニテ善信之(花押)」の銘記と和歌がある。親鸞は浄土真宗の宗祖で、建保2年(1214年)42歳のとき妻子を連れて越後より常陸に入り、約20年間(稲田の西念寺に約10年)滞在し布教に努めた。
竹原城(館)跡(史跡)
竹原城は大掾氏の府中城(石岡市)の支城で、府中大掾平貞国の弟、竹原四郎義国が長禄2年(1559年)に竹原に築いた城である。天正18年(1590年)12月佐竹氏は水戸城主江戸氏に続いて、常陸の名門付中城の大掾清幹(貞国の子)をも攻略した。この時、義国も討死し城も廃されたと伝えられている。牙城の高さ約16メートル、1の郭、2の郭、3の郭ともに円形をなし、外部は水田に接している。昔の面影としては、館跡、土塁、空堀と鬼門の守護としての椿山稲荷神社だけが残っているだけである。
鳳林院山門(建造物)
正徳三年(1713年)9月吉日、総壇中の発願により着工され、同4年4月28日上棟、翌5年10月28日2年間の歳月を費し落成されたものである。今日に至るまで2度にわたる火災(寛永3年、明治15年)の難を免れたが、大正6年10月1日夜半、辰巳(南東)の大風により倒壊、その年に復元された。倒壊前の山門は釘を1本も使わない方法で建立されていた。屋根は茎茸きであったが、昭和50年2月、現在のカラー鉄板覆いになった。
堅倉ばやし(芸能)
鎌倉時代の中期、弘安時代(1278年ごろ)譛州(四国)の金比刀羅宮より奥州(仙台方面)へ分神体を奉遷する途中、常陸国片倉宿(堅倉)に留まり旅の疲れを癒したという。貴布祢神社境内にも分神体を合祀し金比羅神社(金山彦命)として祀られるようになり、五穀豊穣を祈願して祭礼には「堅倉ばやし」が奉納されるようになった。「堅倉ばやし」は獅子舞・神馬(きつね)・4丁目(おかめ)民場(ひょっとこ)からなっている。なお 3切といって始まりを告げる囃子がある。