文化財一覧(美野里エリア2)
紺糸威二枚胴具足(工芸品)
兜は、桃山時代の早乙女家貞(初代目)の作による鉄せん地62間筋兜で遺品である。しろこは紺糸切付板六段下がり。吹返は、小吹で左巻き三ッ巴紋の金蒔絵がある。特に眉庇の裏の腰巻板が立っているのは数少なく珍重なものである。紺糸威二枚胴、袖龍手、佩楯、面頬等を具足する。
泥障塚古墳群(史跡)
巴川中流納場台地の北西部に分布し、古墳時代の中期(5世紀~6世紀)頃のものと推定される。当時この地方を支配した豪族の墳墓と思われる帆立貝式前方後円墳二基(全長39.5メートル)を中心に円墳5基があり1基は湮滅しているこの墳名の起源は、年代的にずれがあるが、古老の言い伝えによれば源義家が奥州征伐の折に馬の泥障を埋めたといわれ、別名あおり塚、またはドンドン塚とも言われている。付近に古代の官道の跡が残っている。
勅使塚古墳(史跡)
中央高校南東約300メートルに位置し周溝をめぐらした(現在は湮滅)雄大な円墳である。その昔天皇の使いが、この地で病に罹り不帰の客となり村人塚を築いて厚く葬りたり、の伝承から、名称も、これからつけられたものといわれている。
- 直径30メートル高さ3メートル
釈迦如来涅槃曼陀羅(絵画)
永副寺22世尭雄法印が願主で、永福寺開山の心海法印より歴代住職名と壇信徒の戒名150名ほどを刺繍し、冥福を祈るために製作されたものである。元禄丙子9年(1696年)住職が壇信徒たちに依頼して作ったもので、中央に釈尊が沙羅雙樹の間に北枕で右脇を下にして臥して涅槃(仏陀の死)に入り、諸弟子をはじめ、鬼神鳥獣が釈尊を囲んでナ泣き悲しんでいる情景である。絵画としての涅槃図はあるが、290余年前に刺繍されたものは珍しく重要である。
阿弥陀如来坐像(工芸品)
桧材の寄木造り、表現形式等から14世紀末(南北朝ー室町時代)の製作といわれている。永福寺は天台宗蓬らい山薬師院と称し、創建された時本仏は薬師如来で、かつては竹原城主の祈願寺であったが、後に浄土信仰の影響により西方極楽浄土に住生できるようにと本尊仏を阿弥陀如来に置きかえたと思われる。像高71.2センチメートル