文化財一覧(美野里エリア1)
園部川低地帯に突出した竹原舌状台地の先端に位置し、形状は端正な柄鏡式中規模、前方後円墳で、古墳時代の中期(5~6世紀)頃この地方を支配した豪族の墳墓と推定される。陪塚二基を伴ったものであったが、一基は湮滅、後円部東側の落ち込みは、鹿島道の遺溝であり、鞍部にかかる欠損は昭和19年頃の防空壕建築による。
- 全長67メートル 後円部巾34メートル高さ7メートル 前方部巾15メートル高さ3.5メートル
愛宕山古墳群(史跡)
小曽納川低地帯に沿う花野井台地にあり、寛文絵図(寛文十三年作)による列状二八基の古墳群の最北端に位置するものである。現存する七基のうち主墳は、周溝をめぐらす円墳で、四基の古墳を伴っている。古墳時代の後期頃、この地方を支配した豪族の墳墓と推定される。
昭和10年頃開墾され栗畑になったこともあるので、覆土の流出は激しかったと思われる。
- 主墳の直径50メートル 高さ5メートル 町内最大の円墳
栗原掃部衛門碑(くりはらかぶえもんひ)
永禄4年(1561年)栗原掃部衛門が父母の供養のために建立したものである。栗原氏は口碑によれば中世府大掾氏の支城竹原四天王の一人といわれているが定かではない。碑石は阿弥陀三尊来迎の図を線刻したものである。永禄(400余年前)の年紀をもつ板碑は県下でも数少ないが、幾度かの移転による亀裂が惜しまれる。《市指定 史第15号》
阿弥陀如来坐像(工芸品)
室町時代初期の作といわれているが、作者は不明である。竹原中郷天台宗永福寺の末寺熊野山神光院霊前寺と号した寺の本尊である。定印、螺形髪波形、内髪に水晶を用い玉眼漆箔、寄木造りである。裏面に「施主中野谷村 えん誉欣西」の銘がある。
白磁製子安観音像(マリア観音)
明朝(中国)より伝来した白磁製のマリア観音像で秘仏とされている。宝永年間(1704~1710年)ひとりの信者が長崎において霊夢を蒙り、授けられた観音像と伝えられ、これを所持して諸国の霊場を順拝し、清浄の地として当地を定め、堂宇を建立して安置したもので、一切衆生女人の難産を救うというので近郷近在の信者が多数参拝していたという。もと、竹原中郷天大宗永福寺末長福寺境内にあったもので、維新後、長福寺の廃寺に伴い明治28年現地に移転した。妊婦の腹帯を授けている。《市指定 工第1号》
紙本版彩不動明王二童子像(絵画)
紙に像容を墨摺りし、その上に着衣、紋様にいたるまで濃厚に色彩した画像で、朱、群青、金泥、胡粉はじめ諸色を多用した画風で、伝統的な絵仏師の手法によって画かれている。不動明王は盤石上に立ち、やや左向き、二童子は腰を低めて中尊に向かって立っている様子をあらわしている。